844-幸せ論

 

あるテレビ番組で、ニューカレドニアにあるウベア島で原始生活を
している日本人女性が紹介されていた。
二十代の後半、島のリゾートホテルで半年間ほど働いた際に現地
の男性と結婚してそのまま居着いたという。
二歳になる男の子と旦那の三人暮らしだ。

 

現在、旦那に定職はなく。もともとパティシエだった彼女がフラン
スパンを焼いて生計を助けている。
妻は働き者なんだと旦那は笑いながら浜辺を歩くと、網を投げイワ
シを数十匹捕まえた。

油で素揚げにパラパラと塩を少々。これでカルシウム補給は万全
だとでも言いそうな感じでポリポリと食べる。
この島では食べることは苦労しないからね。旦那はココナッツを即
席の道具で採り、石で勝ち割るとワイルドに汁をすすった。

一番幸せなのは、家族で川の字になって寝ている時です。そういう
彼女の家には電気が通ってなくてロウソクの灯りだけだ。
確かに最愛の人とその最愛の子供と一緒に暮らせれば幸せかも
知れない。ゆたかな自然のおかげで食べ物の心配はいらない。
お金は最低限でいいのだろう。

 でもどうなんだ?将来のことを考えるとどうなんだ?

 子供の教育
 この先もずっと同じ生活が淡々と繰り返されるんだぞ。
 それに病気になって医療を受けようとするとお金が必要だ。

 しかしだ。
 もしかするとこんな感じなのだろうか。

 教育はしなくてもいいか。
 その淡々とした生活を気に入ってるんだ。
 病気になればそれが寿命と諦めるさ。

 この一瞬に生きていれば、こういう感じになるはずだ。

 番組の中で、村の長老が取材スタッフを歓迎する宴が紹介され
ていた。
 年に一回食べれるかどうかの贅沢な食事なのよと、葉っぱに飾
り付けられた魚の蒸し物が出された。
 どうみても僕には美味しそうに見えなかった。

 日本には世界には、これよりは美味しい料理がある。
 これは事実だ。

長老や旦那は知らないかも知れない。
 しかし日本人の彼女はこの事実を知っている。

 知らなければ、その知ってる範囲で生活すればいい。
 しかしだ。知ってしまえば、欲しくなるのが人間ではないのか。

 世の中には、もっと楽しくてエキサイティングな体験がたくさん
 ある。
 この事実をどう理解すればいいのだ?

 答えはないと思うけれど、
 高校の同級生の中には、修学旅行以来、田舎の街を一度も出
たことがないという奴もいる。
 東京ディズニーランドに行くのが夢という女性もいる。

 九州といえども日本だ。行きたいならすぐに行ける。
 行こうとする気力の問題だ。


 おっと話がそれている。幸せ論に戻そう。
 なんなんだ?

幸せとは何なのか?
 彼女はどう考えているんだ?
 残念だが番組からは、ただオモシロイでしょ的な情報で、よくわ
 からなかった。


 旦那はネイティブなので、不安も不満も問題もないだろう。
 よく働く美人妻に大満足であろうからね。
 しかし日本から移住した彼女はおしゃれも、化粧も、ショッピン
グも、カフェも、素敵なインテリアも、アンチエイジングも
 資本主義的な全てと決別して生きてるんだ。

 自然の中でほんわか生きてるよではない。
 なんだこのストイックさと野生的な刹那。

 わたし今日を生きてますよという存在感。
 生きてるという実感。
 ザ・サバイバル。
 それが幸せの正体なのかも知れない。

 魂の欲するところの原始的な喜びだ。

 突き詰めれば
 俺は生きてるぞ。
 生きてやるぞ。
 そういう北方謙三の三国志ライクな世界かもしれない。

 行儀よく三ツ星レストランの料理に喜んでるようなレベルではな
くて、もっと毛穴から体液が吹き出すような。
 魂から溢れる咆哮といった感じのね。


 あはは。
 難しいなぁ。
 幸せって感じ方だから。

 
  2011年08月30日   岡崎 太郎